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  傘物語


知ってますか?洋傘の歴史。

プロローグ
洋傘が日本に入ってきた明治時代、文明開化の象徴のように大切に取り扱われていたころから見ると隔世の感がある。当方、明治時代から傘を業としている傘屋の目から見ると複雑な思いがある。 最近は傘を「洋傘」とか「蝙蝠傘」などという人はほとんどいなくなった。傘といえば和傘ではなくいわゆる洋傘をさすようになっている。
そこで 日本でこれほど浸透し普及した洋傘のルーツを探ってみる。傘に関する、現存する記録や書籍などを参考にしたが、私の推理や独断の部分があることをお許しいただきたい。またここに書ききれない部分のほうがはるかに多いということもご了解いただきたい。

 

洋傘の歴史
西洋の傘は、いつ、どのように日本に入ってきたのか?

日本の傘の歴史は明治時代にイギリスイタリヤから輸入された「西洋傘」と「和傘」のふたつルーツがあるが、両者は互いに影響しあって現在のかたちになったと考えられる。

傘は日よけであり権威の象徴でもあった。
傘が使われ始めた時代は、約4000年ほど前からと言われている。エジプト、ペルシャなどにも同様の彫刻画や壁画に残っている。ギリシャでは祭礼のときに神の威光を表すしるしとして神像の上にかざしていた。 紀元前7世紀、古代のアッシリアの壁画に、国王の頭上に天蓋のようにかかげてあるのが描かれている。 インドでは傘はもともと酷暑の貴族や高僧の日除けに使われていて、吉祥をもたらす八つの物の一つと数えられている。7世紀にインドから渡ったチベット仏教に大白傘蓋佛毋という手に傘蓋をもっているご本尊がある。その傘は仏の功徳のすべてを包み込み、邪悪なものを人から遠ざける働きをもつといわれている。
日本には、仏教伝来とともに傘蓋が伝わってきた記録が残っている。欽明天皇13年(552)百済の聖明王の寄進によって、金の仏像、仏教書などとともに蓋(きぬがさ)が伝えられ、以来、布を張った長柄の傘がきぬがさの名で、貴族や僧侶などの上流階級の間に広まった。古代では東西いずれにも共通して、傘が貴い人を強い日差しから守ることが目的であったと同時に権威の象徴であったともといえる。英語のアンブレラ(Umbrella)はラテン語のウンブラ(Umbra)からきているがその意味は日陰または蓋うもののこと、それがイタリア語でOmbrella(日傘)になり英語のアンブレラになった。英語のアンブレラは主に雨傘の意味となってしまった。


文明のシンボル・コウモリ傘
ヨーロッパ編


ヨーロッパの雨傘のはじまり
傘が一般的に使われ始めたのはギリシャ時代で、アテナイの貴婦人たちが日傘を従者に持たせて歩いている絵が残っている。そのころの傘は開いたままですぼめることは出来なかった。
今日のような開閉式の傘は13世紀にイタリアで作られたといわれているが、傘の親骨(フレーム)には鯨の骨や木を使っていた。イタリアで作られた日傘がスペインとポルトガルに広がった。フランスへは1533年にフィレンツェのメディチ家のカトリーヌがアンリ王子(のちのアンリ二世)に嫁いだときに伝えられたといわれている。このころまでの傘は婦人用の日傘としてだけ使われていて、スペインの画家ゴヤ(1746-1826)の作品に日傘が描かれている絵があるがその形は現在使われている傘とほとんど違いがない。フランスでも傘は婦人用に日傘かアクセサリーとして用いられた。男が使うこともあったが洒落男が女っぽく装うために使ったという。そのためにどちらかというとデザインが重視され記録に残るような機能の発達はなかった。
傘が雨傘として使われるようになったのは18世紀に入ってからである。
傘を男の雨の道具として広めたのは18世紀の後半、イギリスの旅行家であり、著述家、商人でもあったジョナス・ハンウェー(1712-1786)である。彼がペルシャを旅行中に見つけた中国製の傘を雨傘として使われていたのに感激し、これを広めようと思って防水を施した傘をさしてロンドンの町を歩いたという。その大胆さに変人扱いをされたとされるが、そのころイギリスでは傘は本来女性のもので、男性は雨の日には帽子で雨をよけるのが当たり前で雨具として男が傘を使うのはペチコートを着るのと同じことだというほど奇異に思われる時代のことだった。ところがジョナスが約30年間も手に持ち歩き雨傘として使い続けたことで、イギリスの男たちの目にも次第に傘が見慣れたものとなっていったという。イギリスの紳士用の傘は現在でもハンウェーが使った傘をモデルにしているのである。いつの時代も先駆者というのはすぐに世に受け入れられないようだ。

イギリスにできた最初の傘屋はJames Smith and Sonsといい、1830年に設立された傘とステッキを製造販売する店であった。現在もロンドンで営業を続けている。それまでまっすぐだった傘の手元の形を男性が使いやすいようにステッキの形に似せて売り出した。それはとても高価であったが良く売れたという。現在の傘のパーツの名称がステッキと同じ名称なのはここに始まったと考えられる。このころ断面が長方形の鋼鉄製の骨がうまれたのだがとても重く余り歓迎されなかった。

傘が飛躍的に広まるきっかけを作ったのはイギリスのサミュエル・フォックス(1815-1887)の鋼鉄製のU字型の溝骨の発明である。これで骨組みの鋼材を丈夫で軽くしかも美しいカーブを作ることができた。しかも細くぴったり折りたたむことが出来、男性が威張って持てるステッキの代わりにもなるということで大いに広まった。1852年に特許をとり英国スティール社を設立し各国に骨の輸出を開始し、世界の傘の実用普及の礎を作った。

洋傘渡来
西洋傘がわが国に渡来したのは文化元年(1804)長崎に入港した唐船が運んできた。唐船の船載品目に「黄とんす傘1本」とある。どのような形態の傘かは不明だが高級絹織物の洋傘が輸入された記録としては最も古いものである。長崎には鎖国中もポルトガル人、イスパニア人、イギリス人が貿易にやってきている。正式の輸入買い上げ品は一たん大阪に運ばれ、そこから江戸や京都をはじめ全国に出たわけだが、長崎にそのまま出回った洋傘があっても不思議ではない。長崎には歴史のある洋傘店があることからも想像できるのである。当時の西洋傘を唐船が運んでくるので唐傘や南京傘などと名づけたのは長崎の商人だと思われる。

蝙蝠傘のいわれ
福沢諭吉の福翁自伝に万延元年(1860)の遣米使節を随行した軍艦咸臨丸に乗船した体験を次のように記述されている。「アメリカに逗留中、艦長(木村摂津守)が玩具(おもちゃ)半分に蝙蝠傘(こうもりがさ)を一本買った。珍しいものだと言ってみな寄ってひねくって見ながら「如何だろう、これを日本に持って帰ってさして回ったら」「イヤそれはわかりきっている、新銀座の艦長の屋敷から日本橋まで行く間に、浪人者に斬られてしまうに違いない、まず屋敷の中で折節ひろげてみるより外に用のない品物だ」と言ったことがある。」福翁自伝が書かれたのは明治32年(1899)ですでに蝙蝠傘の名称が広まった後なので万延元年に蝙蝠傘と名づけられていたかどうかは不明である。だが遣米使節の一人、仙台藩士玉虫左太夫の『航米図録』(万延元年・1860)の「紐育市」の条に「道路往行には、男女皆蝙蝠傘を携ふ」とある。これが記録に残る「蝙蝠傘」初出と目されているので、やはり第1回遣米使節派遣の折にが蝙蝠傘が名付けられたと思われる。こうもり傘の名称は広げた形が「蝙蝠」が羽を広げた姿に似ていることから言われたという説、また一説では日本は傘を笠のように「かぶりも」と見られていたので
「冠かんむり」「こうむる」が変化して「こうもり傘」といわれたとの説もある。

日本製の洋傘製造
明治に入って輸入文化の舶来嗜好とともにオランダ、イギリスから洋傘が輸入されていたが、明治10年頃から材料を輸入して洋傘を作る加工業者が生まれてきた。その後明治22年頃、日本に親骨の焼入れができてやっと材料から完成品までを国内でできるようになった。 価格もこれまでの輸入していた西洋傘の約5分の1ほど安価になり、国内の需要も増えていったのである。

高島屋百貨店の前身である高島屋飯田呉服店が明治5年に制定した「しきせもの制度」で店員の服装、規律を定めているが店員の傘の使用について次のように定めている。 「元服後用うる晴雨並びに日傘は色濃く、地紙鯨尺1尺以上に限る。蝙蝠傘を許さず。ただし商法に出るときはかぶり笠に限る。」とある。ここでいう日傘は和傘のことである。当時輸入されていた蝙蝠傘-西洋傘がいかに高価で贅沢品であったかがわかる。

明治時代の傘の広告

 

わが国の特許制度は明治18年に始まっているがなんと明治23年には折畳み式こうもり傘、傘自動開(現在のジャンプ傘の先駆)の特許登録がなされている。日本人の研究熱心と技術の高さは現在も続いて品質においてデザインにおいても世界最高水準だと私は思っている。傘は骨屋、手元屋、生地屋とそれを組み立てるアセンブラーの共同制作製品である。それぞれの分野の材料がマッチしてはじめて美しいハーモニーを奏でるのだ。 いまは簡単に手に入る雨傘。
単に雨露をしのぐ道具と言ってしまえばそれまでだが、こんどの雨の日に傘を使うときに、雨傘が現在に至るまでの物語を知っていただくことで少しでも傘に思いを巡らせていただければ幸いである。

 

 

 

※「洋傘ショールの歴史」大阪洋傘ショール商工協同組合(昭和43年刊行)を参考にさせていただきました。 文責・柴田嘉和

 

遣米使節小栗上野介も傘を買っていた

このときの遣米使節小栗上野介(おぐりこうずけのすけ・幕末、横須賀に造船所を建設した近代日本の発展につくした)も土産に傘を買っていたとのメールを小栗上野介の寺 群馬県東善寺の 村上泰賢様より いただきました。

「私どもの寺は遣米使節小栗上野介の菩提寺でして、幕末の歴史を小栗上野介を中心に HPで見ていただいております。下記のHPでさらに詳しいことがご理解いただけると思 います。小栗公も傘を買って帰国したようで、村人に目撃されております。」

小栗上野介の寺 群馬県東善寺 村上泰賢

(咸臨丸が遣米使節船だとの誤解が多いが、遣米使節が実際に乗った船はアメリカ軍艦ポウハタン号、咸臨丸はその随行艦だった。咸臨丸の目的は日本の技術でアメリカまで航海することだった。「福翁自伝」にその記述があります。)

http://tozenzi.cside.com/

 

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