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天神の歴史

天神あれこれ
九州一の都会と言われるようになった福岡。その中心は天神。その天神についてかけあしで探ってみよう。
天神の町名の由来
天神の町名の由来はアクロス福岡の真迎え、林立するビルの谷間に水鏡天満宮があることからつけられた町名である。水鏡天満宮は菅原道真が大宰府に赴任する途中で四十川(中央区今泉付近)の水面に、自分の姿を映しやつれた自分を嘆いた地に建てられ、その名となった。現在の場所には、江戸時代初期に黒田長政が移設し、福岡城の鬼門にあたる東の鎮守とした。現在の天神の町名は、町名変更前は天神町―てんじんではなく、「てんじんのちょう」と呼ばれていた。

天神の発展
第一段階は市電の開通から久留米行急行電車の開通と岩田屋開設に至るまでの間
天神が現在のような発展を遂げるまでには様々段階を経てきた。天神町が新しい町となったのは市内電車(昭和54年廃止)開通がそのきざしといえるが、真に飛躍的原動力となったのは当時の九州電鉄(現西鉄大牟田行急行電車)の開通(大正13年4月12日)だろう。それとそれまで天神町以西には旧黒田藩の遺産である沢山あった堀が埋め立てられ、多くの空地が蓮根堀の形で保存されていたことで、新都心建設のためのスペースがあったことも幸いしたことだろう。
昭和11年に中牟田喜兵衛が開店した天神交差点のターミナルデパート岩田屋が天神の発展に大いに寄与したことはいうまでもない。その間昭和9年に那珂川沿いにあった博多株式取引所が現在地に移転してきたことは、その後の金融機関の進出などの天神発展を性格付けしたできごとであった。

戦後の新天町商店街設立とビルラッシュが第2段階
太平洋戦争中、昭和19年6月19日の空襲により天神、博多は灰燼と化した。戦後の虚脱と生活の戦いの中、復興のさきがけは昭和21年10月の新天町商店街の誕生とその後の商店街の勃興であった。闇市が横行する中、当時の西日本新聞戦後復興対策本部が安心して買い物ができる商店街づくりを提唱した。新天町商店街は博多で店を焼失した博多商人たちが設計から店舗集め、商店街の運営まで細部にわたり創設者の商人たちが自ら計画を立て実現したものである。新天町商店街設立の趣意書には博多の賑わいの復活と安心して買い物ができる商店街を謳った。その約束どおりに新天町商店街はどんたく、飾り山笠の復活やせいもん払いを実施するなど、市民の心に火を灯した。その後イナバ町、西鉄街などの商店街(現在の天神コアビル)が誕生し新都心の兆しが見えた時期であった。そのころ博多部も商店街が復興し以前の賑わいを取り戻していた。
ビル建設の口火を切ったのは昭和26年の電気ビルであった。昨年閉館したがその付帯施設の電気ホールはその設備の斬新さは全国的にも有名になった。その後協和ビル、天神朝日会館、天神ビルなど天神の狭い地域に十数ものビルが立ち並び都心の姿を形作っていった。

天神大型商業施設大競争時代に突入
昭和36年の西鉄福岡駅の高架化に伴うターミナル型ショッピングセンター西鉄福岡名店街(現在のソラリアプラザ)の開店と昭和46年のダイエーショッパーズの開店が天神の都心として地位を決定付けたとともに大競争時代の幕開けであった。
その後も天神地下街、博多大丸、イムズ、ソラリアプラザ、三越、岩田屋本店移転、岩田屋新館などの大型商業施設が建設されたことで競争の中天神の魅力を高めてきた。また天神周辺の天神西通りや大名には若者を対象にした店舗が多くあることで、九州各地から若者が集まる楽しめる街となった。今年春には、永らく閉まったままであった旧岩田屋本館がファッションビルパルコとしてオープンする。景気の低迷を打開する天神の新たな起爆剤になることだろう。また来年は博多駅ビルが改築オープンする。天神と博多駅がよきライバルとして競争することで福岡の魅力が高まることを期待する。


 

 

 

 

 

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